太宰治生誕100年映画化ラッシュ

角川グループホールディングス角川歴彦会長は約1年前に「人間失格」の映画化を思い立った。累計約1千万部のロングセラー。知名度は抜群だ。しかし、原作を読み直してみて「心が折れそうになった」と言う。「青春文学の金字塔が映画になっていないのには理由があったんだ、と思いました」太宰の小説は陰々滅々とした印象を与える。男は死の影を色濃く引きずり、しかも金と女にだらしがない。観客の共感はとても得にくい。とりわけ「人間失格」には救いがない。文章で読むならともかく、リアルな映像で見せられたら相当つらい。「人間失格」は曲折を経て、荒戸源次郎監督、生田斗真主演で間もなく撮影が始まる。角川会長は「あの重さが今、逆に受けるんじゃないかと思えたんです」と語る。「主人公はトラウマを抱える若者の走りだった。今の人はそこに共感している。彼は『エヴァンゲリオン』のシンジなんですね」荒戸監督は、太宰の難しさを「圧倒的に面白いということに尽きる」と話す。「想像をかき立てる巧妙な文体で、読者を分かった気にしてしまう。映画は画と音で見せ聞かせるもの。だから映画化は厄介だよ。しかし大難物であればあるほど、映画にするのは実に楽しいね」「ヴィヨンの妻」の脚本家、田中陽造さんも行間をいかに埋めるかで苦しんだ。「ツィゴイネルワイゼン」などを手がけたベテランだが、ヒロインの「私たちは、生きていさえすればいいのよ」という最後のセリフが唐突すぎるように感じた。 「太宰には、突然、意表を突くセリフが出てくる。文学ではこの省略がいいんでしょうが、生身の女優がいきなりこのセリフを言っても説得力がない。観客の心に響かないと思った」。山場の設定を変えたり、新たな登場人物を作ったり、「桜桃」など他の短編から挿話を持ってきたりした。

 太宰には熱烈なファンが存在する。しかしそれが映画の応援団にはならない。2冊の太宰伝を著した作家の長部日出雄さんは「太宰ファンは皆、自分ほど太宰を理解している人間はいないと思っている。だから映画に本質が描けてたまるかと考えています。彼らは映画館に足を運ばないのでは」と予言する。 「太宰は、不特定多数を相手にする文学に、手紙という一対一の形式を持ち込んだ。読者一人ひとりに自分だけにメッセージを発していると感じさせるんです。太宰体験とは、極めて私的なもの。大勢で見る映画館には似合わないように思います」評論家の小谷野敦さんは「純文学の中で太宰の映画がとりたてて少ないとはいえない」と前置きし、「三島や谷崎は確かに多い。しかしそれらは大衆向けの作品だからです。彼らは映画化を視野に入れて書いている。太宰にそんな余裕はなかったと思う。もし長生きしていたら、映画にしやすい小説も書いていたんじゃないか」。「人間失格」と「ヴィヨンの妻」は、映画化の際に一つ重大な変更をしている。2本とも、後味をよくしているのだ。「人間失格」の主人公は廃人になって終わる。「しかし、商業映画としてはそれで終わってはいけないんです」と角川会長。「主人公が再生へ決意するところまでを描かないと」 「ヴィヨンの妻」は、太宰の暗さだけでなくユーモラスな側面も表現されている。田中さんは「希望がないと映画を作る意味がない。社会に絶望して映画館に来た観客が、もうちょっと生きてみようかなと思ってくれたら使命を果たせたと思う」。( 2009年6月13日朝日新聞)

なるほど原作によっては「映画化は厄介」と思われる作家も多いのでしょう。太宰が原作を書いた際に映像化を意識して書いたとも思えませんし。

しかし、映画は、時として、原作とはまったく別の世界を表現することができます。ちなみに法律の世界では、著作権でみてみると映画と原作とはまったく別の権利が発生しています。映画の著作権は複雑です。

それぞれの映画で、どのような世界が表現されているか、今年の太宰治映画化ラッシュを楽しんでみようと思います。